02「生まれ落ちる」

1.

 あのよく見かける水色髪の研究者の首を絞めた時感じたのは、液体のぬるさとは違う生物の確かな温かさだった。
 そして初めて得た筈のその感触に、何故かしくしくと胸を締め付けられるようなものを感じたのだ。
 それがどういう状態なのか自分のものなのかそれとも頭上の黒いもののなのか判断がつかなかったが、深く悩むことを知らないキオは、頭上から「それは懐古である」と示されたら、それが何故浮かんだのかどういったものなのかを尋ねることなく、納得した。


 キオが目を覚ますと、目の前には見慣れた液体でもなくガラス越しに見える床でもなく、黒い筋が並ぶ茶色い板が見えた。
 まじまじと瞬きもせずに眺めていると「それは木製の天井である」と少し遠くの方から電気信号が送られてきた。追加で「眼球が乾くので空気のある場所では瞬きが必須である」と言われ、確かに眼球がひりひりしてきたのでゆっくりと目蓋を何度か上下させた。
「起きたのか」
 更に遠くの方から、電気信号ではない、空気を振るわせる音として声が聞こえた。
 声の方へ振り向こうとして、
「っう……」
 全身を襲う痛みに思わず声が漏れた。
「大丈夫か……?」
 天井を遮り水色髪と赤い目がそろりと視界に現れる。
 体が痛い、と返そうとして、それはどう口と喉を動かしたら出るのかがわからなかった。
 ぱくぱくと空気しか漏らさない口を開け閉めしていると、水色髪の――松田爽汰と黒いものが言ったその人間は、少し首を傾げて悩んだ後何かを指でつまんでキオの頭上に置いた。
 ばちり、と火花の散る錯覚が見え、五感の得る情報量が数倍に跳ね上がる。
「か、からだじゅうが痛い」
 やっと返事をしながら、つい最近体験した感覚に頭上にいるのは黒いものだと把握する。
「そりゃ、今までまったく動かさなかった身体であんだけ暴れたらな……筋肉痛にもなるよな」
「足が……みぎの足が痛い」
「撃たれてたからな。ちょっと見てみたけど弾は貫通してるから、不幸中の幸いだな」
「さいわい」
「よかったってこと。……お前その黒いのが無いと喋れないのか?」
「いまのところはサポートがひつようであるって言ってる」
「言ってる?」
 爽汰は眉をひそめて視線をキオの上へずらす。黒い物体は空気の抜けたボールのような形状で、その端から薄く丸みのある尻尾のようなものが伸びている。一見とんでもなくでかいおたまじゃくしだ。脇に抱えて運んだ時は夜中だったせいもありよくわからなかったが、こうして明るい場所で見るとなんとも気色が悪くてあまり触る気にならない。黒い点が尻尾のついてる位置の反対側に二つついているから、ひょっとするとこれは目かもしれない。つぶらだ。
「気色悪いというのは個人の感想であり、研究者としてはいただけない」
「ごめ……え」
 急に流暢になったキオの言葉遣いにも驚いたが今自分は声に出して感想を述べただろうか。
 爽汰は一歩後ずさりながら黒い物体とキオを交互に見やる。
「……どうなってんだ」
 その問いにキオの唇が必要最低限といった様子で薄く開き平坦に言葉を紡ぐ。
「通称名キオと私というものにはBBI器官というものが備わっている。BBIは脳波を電気信号化し別のBBIへと送ることが出来る。信号を受け取ったBBIはそれを脳波へと変換し本体へ――」
「……待ったお前はキオじゃなくて黒いののほうか。脳波を送ればつまりそうやって別の身体を操ることが出来るってことだな」
「物分りが良くて助かる」
 だがしかしそんな情報は資料にあっただろうか。数年キオの経過を観察していたが、そんなものの存在は誰からも伝えられていない。
「それはkioプロジェクトのリーダーが誰にも伝えていないからである」
「はっ? ……ところでお前なんで俺の頭ん中読めるんだ。まさか俺にも何か埋め込まれてんのか」
「否定はしない」
「えっ、冗談だろアホか」
「ただし一方通行であり私からお前に働きかけることは出来ない。また、キオのBBIとは一切関わることが出来ない」
「ずいぶんと局所的だな。お前はなんなんだ。何が目的だ」
「お前が知る必要は現段階では、無い」
「またそれか。そうですか。で? 俺は何をすればいいんだ」
 指示をあおいだ途端、今までふらふらとさ迷っていたキオの視線がじっと一点を捉えた。爽汰の双眸。赤い色素の奥側をじっと見ている。
 何か見透かされているのか。どっちに。
「……」
 これ以上の詮索はさせない。瞳を閉じ、部屋の出口へ向かった。その背中に何の抑揚もなく、ただ若干今までよりも間を増やして言葉が投げかけられる。
「……質疑応答の意思を感知しなければ、お前のBBIは作動しない」
「……ふーん、それが事実かどうか怪しいけどな」
「逃げるのか」
「逃げてきたのはお前らだろう?」
 朽ちかけのドアを開ける。死に損ないの蝶番が細く叫んだ。

 キオの寝ている部屋の外は、リビングになっている。
 リビングは天井が半分程崩れ、澄んだ蒼い空が朝日を直接投げこんできていた。十数年放置されたおかげで雑草たちが繁殖スペースを求め我先にとあちこちから群がり、人が住んでいた形跡はもはや簡素な椅子と机しかない。その家具でさえつる性植物が絡まり花を咲かせ、植物だった時代に帰ったかのように生き生きとしてしまっているから、もう完全にこの部屋は人の住居としては死んでいた。
 玄関にあたる場所へ。扉がついていた木枠の隣の壁に、線が何本も引いてある。
「…………」
 指でなぞる。線の隣にはそれぞれ「爽汰5歳」だったり「爽汰6歳」だったり「わんこ3歳」の文字が書き込まれていて、ああ、帰る度熱心に身長を測らせていたな、と引き出しの奥底に漂っていた記憶を少しだけ浮かび上がらせて、また沈めた。
 逃げているのだろうか。
 そうだよ、と自嘲気味に噛み締めても、違うね、と平然とした態度をとっても、しっくりくるものがないのだ。
 玄関から外を窺うと、鳥のさえずりと川のせせらぎ、木々のざわめきしか聞こえない。追っ手はまだここには来れていないようだ。が、時間の問題だろう。
 一刻も早く逃げなければいけない。
 誰が? 何から?
「……はぁ、」
 風と共に襲い掛かってくる後悔を、爽汰はのろのろとしゃがんでやり過ごした。

 キオを寝かせた部屋に戻ると、キオは起き上がってベッドの脇の窓から外を眺めていた。黒いのは頭に乗せたままだった。爽汰に気付くと「あ」と小さく声を漏らし、少し悩んだあと「まつだそうた」とゆっくりと名前を呟いた。
「フルネーム呼びやめろ、松田でいいよ」
「そーたのほうが言いやすい」
「松田」
「そーた」
「聞き分けの無いガキって嫌いなんだけどな」
 キオはあまり理解していない様子で首を傾げる。爽汰はため息ひとつで訂正を諦めた。
「……で、お前の名前はキオでいいんだな? 上のその黒いのは名前あんのか」
「みんなこちらを見てキオと呼ぶからキオでいいと思う。これは帽子」
 どう見ても帽子には見えない。遠目に見れば辛うじてバンダナに見えなくもないが。
「頭に被るものは帽子なんだと言うから、これは、帽子」
「……いや……巨大なおたまじゃくし……まあいいや……おい帽子、逃げるアテはあんのか」
 爽汰が問うとキオはこくんと頷いた。
「川を下って町へ行く。必要な物資を調達しなければ追っ手に捕まる間も無く死ぬ」
 機械的に、恐らくは帽子が、キオの口を借りて喋っている。
「強盗でもするか?」
 糸くずしか入っていないズボンのポケットをひらひら泳がせて爽汰は鼻で笑った。
 あとは寝るだけ、という時間帯に脱走騒ぎを起こされ半ば拉致されてここに来たのだ。身一つしか無い。更にキオは検査着一丁という軽装である。金などあるわけもなく、それ以前にこのまま町まで出れば箱庭の追っ手に捕まる前に警察に捕まってしまうのではないか。
「金はある」
 キオがゆっくりと腕を上げ床を指差す。
「……は?」
 爽汰と、帽子の意図がわかっていないキオの視線が疑問を抱いて交わり、次いで揃って床を見る。
「床を剥がせ」
 爽汰は眉をひそめて帽子を睨むが、帽子はそれ以上は何も言わず、キオも首を傾げ床を指さしたまま動かない。
 怪訝に思いながらも指された箇所の板に靴の爪先をひっかけ少し持ち上げると、打ち捨てられて久しい家の床板はあっけなく外れた。
 床下から小さな缶箱が覗いている。
「これは……」
 取り出して開けると、中には硬貨と紙幣が雑にしまいこんであった。
 誰が。どうして。
「……」
 爽汰は浮かんだ疑問符を即座に沈めた。
「……町まで行って、物資調達とやらをしたあとは。どうすんだ」
 帽子に問うと、
「キオに一任」
 という無責任な発言を残して、帽子は沈黙した。
 自分の体の自由を取り戻したキオがゆるゆると床を指していた腕を引っ込め、ベッドの上から缶の中を覗いてくる。
「一任されたぞ。どうすんだお前」
 投げやりに聞くとキオはしばらく考えている様子で沈黙していたが、
「あ」
 どちらからともなく腹の虫が主張してきたので、とりあえずは町まで下りて考えることにした。



 爽汰が外の様子を確認しに部屋から出て行く。
 ベッドに腰かけながら、目を覚ました時から絶えず続いている体中の違和感にそわそわしていると、
 ――まるで誰かが手を差し伸べるべく駆け寄っているというよりは、飢えた虫が喰らい尽くさんと這い上がってきているようだ。
 と、この例えようの無い感覚を帽子が抽象的に言語化した。
 体が勝手に傷を修復している。
 呼吸は勝手にはされなかったのに傷は治してくれるのかと、自身の内部で微細な何かが動き回り組織を組み直していくのを感じながら、キオはゆっくり瞬きをした。
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