09「可能性を切り捨てた」

1.

「おい! 何寝てんだ起きろ!」
 遠くで爽汰が叫んでいる。早く起き上がらなければと思うのにキオの体は歌声のノイズに浸食されて思うように動かなかった。
 帽子との接続も少し邪魔されているようだ。帽子に頼んでも動きそうになかった。
 せめて帽子と連携が取れるようにならなければとノイズを探った。歌の形に作られたノイズの先に見慣れない記憶の断片がある。
「あ……れ……? さっきの歌……知ってる。かもしれない……」
 記憶の断片は楽譜をゆらぎに渡していた。初めて得た楽譜にゆらぎが顔を綻ばせている。その楽譜を渡したのはこの記憶の持ち主だ。
 脳内を見渡せば、ノイズに起こされた記憶の断片が沢山散らばっている。
 キオとして生きてきた記憶なんてこの断片たちの量の半分にも満たない。
 あちこちの断片を覗いては、ああこんなことをしたっけな、という気分になってきて、断片の境界線が曖昧になる。溶け込んでしまえばそれはもう自分の一部だ。そうして出来た一部が半分以上を占めるなら、元からあったものよりそちらのほうが正しいのかもしれない。
「いい加減起きろよ! 焼けるぞ!」
 爽汰が何か言っている。
「そうだった……私はちゃんと聞こえてた。顔が残ってたら笑い飛ばしてやるのにな、と思ってた」
 粗方ノイズを払ってなんとか起き上がる。



 ずいぶんと酷な問いかけをするな、と爽汰は身動きのできないままゆらぎを見ていた。寝てる本人の前でこっそり否定してみたり今の今までキオを避けている自分が言えたことではないが。
 歌のダメージか精神的なダメージか、呼びかけてもキオはしばらく動かなかった。
 しばらくしてからようやくキオが立ち上がる。ほっとした自分を、ふらふらと近付いてくるキオから顔を逸らして否定した。
 キオは無言のまま爽汰の前でしゃがみ、爽汰の足を縛るコードをぶちぶちと千切ったり結び目を緩めたりして解きだす。
 キオにしては手際が良い気がするし、帽子にやらせているにしては動作が人間的だ。戦地に行ってる間に成長したのだろうか。
 爽汰がキオの動作になんとなく不気味なものを感じていると、唐突に、
「ねえ。――私は一体何者なんだろうね? 爽汰」
 半分似ている声が、昔と同じ抑揚で語り掛けてきた。
「え」
 それをきっかけにしてキオの向こうに違う人間を意識してしまうと、動きの違和感が消えた。
 あの人まんまだ。見た目はほとんど違うのに。
 爽汰は身震いする。込み上げてきた懐かしさに喜んでいいのか嫌悪していいのか分からない。
「……何言ってんだよ、お前は――」
「よく判らないんだ。爽汰。決めさせてあげる。私とは何者だろう」
 性質の悪い嫌がらせ。キオはこんなことを思いつきもしない。はずだ。多分。
 つまりこれは、誰だ。
 怖くて指先から上へ視線を上げられない。
「……何で俺に訊くんだよ。ゆらぎに問われたのはお前だろ。お前が自分で自分を決めろ」
 自分で聞いて呆れる程声が震えていた。目の前で俯いて爽汰の足かせを解く赤髪は、それを聞いて笑うでもなく、首を傾げるでもなく、
「皆鏡代わりにキオを使う。自分ではキオだと思いたいけど、ゆらぎはマスターに会いたいみたいだし、その私の記憶もぽつぽつ思い出してる。キオという自我なんてなかったのかもしれない。じゃあこれは誰だろう」
 淡々と爽汰に向かって喋りかける。
「知るかよ、なんで俺に訊くんだよ……!」
 視覚だけでもこのよくわからない現状から逃れようと爽汰はきつく目を閉じた。目の前のそれから自嘲のようなものが漏れ聞こえ、
「生まれて初めて触れたのが爽汰だった。だから、私の世界では……爽汰が思うものが一番正しい」
 最悪の状況で最高の殺し文句を寄越してきた。
「だから告げて」
 そして無慈悲に言う。
「早くしないと爽汰も焼けるよ」
 同意するように一際大きな音が階下から響いた。
「生死の狭間で自分の一言が必ず誰かを殺す状況どんな気持ち? ねえねえどんな気持ち?」
「……最高に気分悪い。ほんと屑だな」
「褒めてもこのコードで亀甲縛りくらいしかしてあげられないよそーたん」
「もうやだこの人」
 懐かしいやり取りに変な笑いと涙が込み上げてきた。
 それから滲んだ視界にそれを捉える。
 俺が告げるしかないのか。
 熱風で暖められているのに頭に血が回らない。まだ何も告げてないのに熱さのせいではない汗が背中を這う。既視感を覚える。どう答えても罪悪感に囚われる。爽汰は心底自分の境遇を呪った。
「最初に殺したあと俺が何て言ったか聞こえてた?」
「当然。あの時ほど身体の無い自分を悔やんだことはないね」
「そりゃよかった」
 爽汰は一度深呼吸した。
「……お前は、頻繁に人をからかって楽しむくせに、案外素直で――」
 小さく呟くとコードを解く手がぴたりと止まる。
 その先を声にするということは、可能性を切り捨てるということだ。爽汰が今までずっと沈めて逃げてきた「答える」という作業。
 些細なことから逃れられないことまで様々な感情が頭の中で渦巻いて一つに纏まらない。決意など無く完全に口に出すまで揺らぎっぱなしなのだろう。
 それでも一つに絞って突きつけてやらなければいけない。
 爽汰が思うものが一番正しいとそれが言うのなら。
 喉が詰まるのは半分熱風の所為で、半分は自分の弱さだ。今までその弱さに甘えて答えを沈めさせていた。今回はその救いの手をそっと払いのけて水底に落とす。
 赤い空気を吸い込んだ。
「――初めて食ったものがプリンってだけでプリンを好み人の呼び名を自分が決めた通りにしか呼ばないまだ世界に出てきたばっかのキオというただの塊だ」
 一息に告げるその途中から爽汰を決意と後悔が波になって襲ってくる。足元を縛っていたコードは完全に千切れた。ない交ぜになった感情のぶつけどころを欲して、まだ縛られたままの両手を上げた。指で俯きっぱなしのキオの額を押し上げる。懐かしい歌声を聞いた時以来初めて視線が合った。
「わかった」
 それは呆然と爽汰を見上げてから微笑んで一粒だけ涙を落とした。
「何で泣くんだよ」
「後悔しない?」
「決意が揺らぐから訊くな」
「本当にいいの?」
「訊くなっつってんだろ」
「折角生まれなかった事に出来るのに」
 爽汰はぎくりと身体を強張らせた。あの時起きてたのか。
「それは、なんていうか……姿だけ変わったと思えば、また前みたいに一緒に居ることも出来たかもしれない。いや普通に出来ると思う。……でも確かに自分の手と意思で解体したんだ。もう居ない。生まれなかった事になんて俺に都合良すぎる。お前はキオだ」
 ほとんど自分に言い聞かせるように爽汰は言う。
「俺が殺したから別にお前は悪くないしどっちかっつーとあの人が最悪なんだけど、でも、……面影がちらついて……解ってるんだ。ガキがダダこねてるだけなんだ。別に誰も憎くない」
「何が言いたいのかよくわからない」
 キオが首を傾げる。その動作はもう他の誰でもないキオのものだった。
「俺だってよくわかんねーよさっさとゆらぎ捕まえてこいよ! ……なんかだいぶやばいだろ、ここ」
 室温は上がり続けている。壁に反響する駆動音もだいぶ不規則になっていた。
「そういえば爆発したら敷地全部吹っ飛ぶって帽子が言ってた」
「はあ!? 早く逃げないとやばいじゃねーか尚更早く引っ張ってこい」
「わかった。そーた先に外出てていいよ」
 とゆらぎを追いかけようとしてから、ふと立ち止まってキオは頭上のものを持ち上げた。
「……これ以上暑い所に行ったら壊れちゃうかも。そーた持ってて」
「えっ、うお確かに生温い気持ち悪い」
 爽汰の腕に渡された帽子は尻尾を揺らした。心なし動作が鈍い気がする。
「でもお前これ置いて行って大丈夫なのか」
「多分」
 キオは吹き抜けからひらりと飛び降りていった。爽汰はそれを無言で見送ってから、
「……あっ待て手の縄、これ……っ!」
 すっかり解くのを忘れられていた両手を慌てて掲げるも、キオの姿はもう見えなかった。
 今更ながら、もしキオがゆらぎを止められなかったら、逃げたところで爆発四散オチなのかもしれない、という可能性に至って、爽汰は自分の選択に途方もない不安を覚えた。
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